【主な登場人物】
わたし 想い出屋 想い出屋の中のお婆さん・お爺さんほか
【事の成り行き】
もともと記憶することが不得手なわたしですが、最近とみに物覚えが悪く
なってきました。落語会に出かけても、帰って演目を思い出そうとして思い
出せない。ですから、すぐにメモを取るよう心がけています。
ヒョッとして記憶装置に欠陥があるのか？ とも思われますが、弟が生ま
れた日、阿倍野の日赤病院へ見舞いに訪れ、靴の上からビニールカバーを被
せ病室へ入った３歳当時の記憶が鮮明に残っていることから、記憶細胞欠落
でもなさそうなのです。
考えるに、印象に残らない、言い換えれば「記憶するに足らない、平凡な
口演だった」から忘れてしまうのだろうと思うのです。なにも落語の演目に
限らず、そのほか人名、地名、出来事……、忘れたからといって「それがど
うしたの？」なモノは残らない構造に出来上がっているようです。
しかし不思議なものですね、一つの想い出というのは質量一定で、今まで
生きてきた年数分のパーセンテージは年々少なくなるはずなのに、逆に年々
重みが増してきているように思えます。たぶん最後には「想い出の中だけで
暮らす」日が訪れるのでしょう(2012/05/06)。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
ありがとぉございます。一席聴ぃていただくのでございます。
■あッ、こんなとこへこんな店あったんやなぁ……、いつも通ってる道やね
んけど、気が付かなんだ。やっぱり小さいからかなぁ……、ははぁ〜ん、見
過ごしとったんやなぁ。
■大ぉきな看板やなぁ〜「おもいでや」ははぁ〜、想い出屋、道具屋にした
らふさわしぃ屋号とゆや屋号やけどな。え〜、あんまり人おらんよぉなけど、
まぁこんなん見んのん嫌いなほぉやなし、ちょっと冷やかしてみよか……
●へぇ、いらっしゃいませ■ビックリしたがな親っさん、そんなとこに座っ
てたんかいな。道具類とおんなじ色の顔して座ってるさかい、気が付かなん
だやないかいな●はい、いらっしゃいませ。
■見せてもろてもえぇかいなぁ？●はいはい、どぉぞどぉぞ、ちょっとお待
ちくださいませ、あの、お茶入れてきますけ■いや、そないたいそぉにして
もらうほどのこと、いや、すぐに……
■行てもたがな、どんならんなぁ。やっぱり流行ってないねんなぁ、久しぶ
りの客やさかい「逃がさんとこ」てなもんや。精一杯の、あら愛想やね「お
茶、入れてきますけぇ」なんちゅな。
■こぉらまた品もん少ない店やなぁこれ。何ぼ小さい道具屋ちゅうたかて、
道具屋ちゅうもんはだいたい、結構品数あるもんやけど……、まぁこの机は
えぇとせんかいな、あと何があんねん？ えろぉ新しくもない腕時計と耳掻
き……、耳掻き？
■こんなもん、売んのかい？ 何やこの店？●お待ちどぉさまでございまし
た。お番茶ですけど、これ飲んでくだせぇ■あの何かいな、ちょっと尋んね
るけど、品物はここにあるだけかいな？●はい、そぉでございます、はい。
何かお気に召しましたものございますか？
■お気に召すも召さんも、これだけの数やけど……、まぁまぁ、この机なん
かはそこそこちょっとしたもんやと思うけど？●はい〜、あのぉ、それでご
ざいますか、はい。それはね、西洋の何とかいぅ木でこしらえましたもんで、
結構な物でございますよ。
■あぁ、こんなもんでちょっと尋んねるけど、いや、買う買わんは別として、
ちょっと尋んねるけど何ぼほどすんねん？●はい〜、それでございましたら
三千円でございますけど■無茶言ぃないなおい、この机三千円？ バカなこ
と言ぃなさんなあんた。ウソでも珈琲一杯五百円すんねんで。
●ごめんなさい、すいません、え〜、そいじゃ二千五百円でも結構でござい
ます■違うちがう、誰も「高い」言ぅてへんがな。今も言ぅたよぉに、珈琲
一杯でも五百円するご時世やっちゅうねん、それが三千円は、こんなこと客
の立場で言ぅのんおかしぃけど「ちょっと安すぎひんか」ちゅうてんねん。
●あぁ、さよでございますか、すいません。わたし三千円で高けぇのかと思
いまして、そいで二千五百円と、はい。こちらの腹見られましたな、と思い
ましてね、はい。お安ぅいたしましてございますけど■ちょっと待ちぃな、
え〜、二千五百円、そらまぁ、ヒョッと買うとしたら安いに越したことない
けどやで。
■ふぅ〜ん、あんまり、物の値ぇ知らんのかいなぁ、ボケとんのかいなぁ。
ちなみに尋んねてみよ……。この耳掻き、こら何ぼやねん？●はい〜、お客
さんなっかなかお目が高こございます。この耳掻きにお目付けられる方はそ
んなにヨケございませんですよ、はい。いやぁ、感服いたしますね、なかな
かお詳しぃございます。
■いや、別に褒めてもらうほどのことないけど、何ぼやちゅうねん？●はい、
もぉ、あなたのその眼力に感服いたしまして、もぉお安く願います。五十万
でございます……、捨て値でございますよ。
■なんやて？ この耳掻きやで？ これ、別に純金でできてるわけでも何で
もないで、竹の耳掻き。あぁ、分かったわかった、何ぞ由緒あんのんかいな、
まぁこんなことないやろけど、早い話がや、千利休といぅ人が使こてた耳掻
きやとかいぅよぉな、そぉいぅ何か？
●何もございません、へぇ。この近所におられます、お年寄りのお婆さんの
持って来られましたもんでございます■やっぱ、ボケとんねなぁこれ……、
また寄してもらうわ。
●ちょっと待ってくだせぇ、お客さん、ちょっと待ってくだせぇ、お戻りく
ださいませ、はい。あなたヒョッとしたら、わたしのことボケとるとお思い
じゃないですか？
■ヒョッとせぇでも、思うよ。当たり前やないか、何考えてんねな。この、
ウソでも立派なもんやないかい、まだまだ使えるやないかい、この机。これ
が二千五百円で、何でこのわけの分からん耳掻きが五十万やねんな？
●はい〜、いや、何でございますよ、あなた何でございますか、この品物の
値打ちで値段付けてるよぉに思とられるのと違いますか？■ちょっと待ちぃ
なおい、妙な言ぃよぉしないな。当たり前やないかいな、その物の値打ちで
値ぇ決めな、何で決めるねん？
●お客さん、手前どもの商売、ご承知でございますか？ うち「おもいでや」
でございますよ■あのねぇ、見たよ。別に「おもいでや」であろぉが「越後
屋」であろぉがやで、屋号はどぉでもえぇねや。道具屋には違いないねやろ？
●それが、大きな間違いでございます。うちゃ、道具屋やございません。想
い出屋でございます■想い出屋て何や？●想い出を売り買いするのでござい
ます。それが手前どもの商売でございます■それ、どぉいぅこっちゃねん？
●はい、ですから、この机なら机を買ぉていただきますといぅと、想い出も
一緒に買ぉていただくことになるわけでございます■あぁ、品物売り買いす
んねやなしに、この机なら机買ぉたら、机にまつわる想い出も一緒に買うこ
とになんのかい？
●はい〜、ほぼ、そぉでございます。ほぼ、そぉでございますけど、もっと
正しく申しますといぅと、想い出を買っていただきますと、その想い出を思
い出すキッカケとして、品物も共に付いていく、といぅのが、より正確でご
ざいます。
■まぁ、分からんことはないけども、どぉいぅこっちゃ？●なんでございま
したら、ものは試しでございますけ、どれか一つお買い上げ願いませんか？
無理にとは申しませんけど。
■あぁそぉか、よっしゃ分かった。ほな、とりあえずこの机、こんな机は前
から欲しぃと思てたんで、これもらおか。三千円？ いや安いほぉがえぇ、
二千五百円、二千五百円。
●はい、二千五百円ともぉ言(ゆ)ってしまいましたんで、しかたございませ
ん、はい。そいじゃまぁ、二千五百円、へッ、こちらへちょ〜だいいたしま
すです。はいはい、ちょっと待ってくださいよ、はいありがとぉございまし
た。そいじゃ、二千五百円の想い出をお売りいたしますで、この机もどぉぞ
一緒にお持ち帰りくださいませ。
■ふぅ〜ん、ほでこれで何かいな、そらえぇけども、値はどぉして決めるね
ん、その想い出の値は？●はい、秤(はかり)がございますけぇはい、ここに
ございますでしょ。想い出秤でございます。
■えッ？ あぁ、ケッタイなもんあんねんなぁ、それで量るのん？●はい、
何でございましたら、その机こっちかしてくださいませ、はい。はいはい、
ちょっと待ってくださいよ……
●はい、ほらッ、どぉでございます？ この針が三千円から二千五百円のと
こ、ウロウロ〜ウロウロしとるでしょ。はい、これで分かりますけぇ。ちょっ
と待ってくださいよ、いよッとしょッと、はい。
●何でしたら、この耳掻きちょっと量ってみましょ〜か……。ほれほれほれ、
ほれ、五十万から六十万のあたりをウロウロ〜ウロウロしとるでしょ、針が
ね。
●はい、ですから、ここで五十万で売るか六十万で売るかが、こちら商売で
ございます、はい。そで、捨て値でございます五十万のほぉ取らしていただ
きましたよぉなことでございます。
●このよぉにして値段決めますでございます■あらぁ、オモロイ秤あんねん
なぁ、こんなん見んのん初めてやなぁ。そいで何かいな、この机にまつわる
その二千五百円の想い出ちゅうのん、どんな想い出や？
●はい〜、これでございますね、お若い人でございました。小説家志望でご
ざいましてね、いろいろ小説をば書いておられましたんでございますけどな、
これがねぇ、あるときね、何とかちゅう雑誌の何とか賞といぅものの、新人
賞をこの小説がね、それになったんだそぉでございます。
●さぁ、悪いシャレでございますね、なんかの間違いでございましょ〜、と
ころがこの人が「やったぁ〜」ちゅなもんでございます「わしにはそぉいぅ
天分があったのか」ちゅうて。
●さぁ、これから文壇に打って出て、頂点目がけて駆け上がろぉちゅうので
ね、とりあえずまぁ格好からでも始めなきゃいけんちゅうのでね、さっそく
この机をどっかから買われましたんでございます。
●確か、もらった賞金に幾らか付けてお買いになったそぉでございますけど
ね、さぁそれからドンドンドンドン書いたんでございますけど、まぁ打って
出て駆け上がるも何も、その間違いのところが一番の頂点だったらしゅござ
います。
●もぉ書いても書いても、ろくなもん書けません。で、見切りのえぇ人でね
「わしゃもぉダメじゃ」ちゅうて、あっさり止めてね、まぁお父さんの仕事
を受け継がれまして、鉄工所で成功しておられます、はい。幸せでございま
すよ、今はね。
■ほぉ〜ッ、で、その？●そぉでございます。この机があると、その想い出
が、いわば嫌な想い出でございますけねぇ「いつまでも目障りになるけぇ」
言ぅてねぇ、売られましたんでございます。
■ほぉ、それで二千五百円？ そのなに、間違ごぉて受かった小説の題名ちゅ
などんな題やねんな？●わたしは分かりません、あなたがお買い上げになり
ましたんで、あんたの頭ん中にございます■そんな気、せんけどなぁ。そら
分からんで、その小説の題名がやで『恋の城下町』てなことは、なんでわた
しが……
■あらッ『恋の城下町』●ほれほれ、想い出をお買い上げになりましたで、
みんなあなたの頭ん中にございますよ■オモロイもんやなぁ……、どんな書
き出しやねん？●わたしは分かりません、あなたがご存じでございます。
■いや、そこまでは無理や、それはね、題名はたまたま思い付いたけど、そ
れは分かれへん分かれへん。え？ なに？ 「春の城下町は、恋の季節であ
る。太郎は花子に言ぃました。わたしはあなたが大好きです……」なんや、
これ？ 出て来るねぇ。
■けど、ケッタイな小説やねぇ。これでウソでも新人賞取った？ こんなも
ん想い出と言ぅより、心の傷やでこれ、二千五百円でも高い●言ぅときます
けど、返品はできませんので、お願いします■えらいもん買ぉてしもたなぁ。
▲おっちゃ〜ん、買ぉてくれる？●はい、いらっしゃいませ〜。すみません、
あちら先に済ましますけ、ちょっと……、はいはい、お嬢ちゃん、またでき
ましたですか、恋の想い出が？ もぉ五、六度目でございますよ。また、彼
氏が変わったんでございますか？
●はいはい、今度はキッカケになる品物は何でございますか？ はいはい、
この腕輪ですか、え？ ブレス、レットちゅうんですかい？ はい、難しぃ
こと分かりませんけぇ、はい乗せますでね、ちょっと待ってくださいよ……、
はい、見てください、一万円です。
●一万円でいいですか？ はいッ、分っかりました、はい。また想い出がで
けたら、どぉぞ売りに来てくださいね、はい、一万円渡しときます、はいは
い、ありがとぉございました。またよろしくお願いします……
●へ、あんなよぉなことでしてね、はい、恋の想い出を手前どもがお買いい
たしましてございます■はぁ〜ッ、しかし何かい、オモロイもんやなぁ●面
白いことありませんよ、昔の娘さんはね、恋の想い出などはね、生涯心の奥
深くしまっておいたもんでございますよ。
●それがどぉでございます、この頃はみなパッパラパッパ・パッパラパッパ、
もぉ何ぁ〜んでも持って来てお売りになりますねぇ。まぁ、そら妙に思い詰
めてねぇ、自殺するとか、心中(しんじゅ)されるよりかましかも分かりませ
んけどね。
●あぁパッパラパッパ・パッパラパッパ売りに来られますとね、日本の将来
はこれでも大丈夫かな、といぅ気にならんことはありませんけどな■ほぉ、
それにしてもなぁ、恋の想い出が一万円とはなぁ。
●いえいえ、はじめはもぉちょっと値打ち(ねぐち)があるんでございますけ
どね、だんだん鮮度が落ちますけぇ。もぉ五、六度目でしょ、常連さんでご
ざいますけぇね、はい。
●やっぱりね、想い出は売られますから、前のことはもぉ忘れてしまいます
からね、そのときは真剣ですから一万円ぐらいのネグチはあるわけでござい
ます。これが単なる遊びだとか、浮気だとかでございますといぅと、千円の
ネグチもありません、はい。
●そのかわりねぇ、結構な初恋の想い出になりますと、百万からするよぉな
のがございますよ■えらいもんやなぁ、しかし、百万もする初恋ちゅな、よ
ほどこぉ激しぃ？
●それがそぉじゃありません。かえって、淡ぁ〜いね、思ったのか思わない
のか分っからないよぉな、あわぁ〜いのに値が付きますです、はい。また、
かなえられなかったね、ゆわゆるところの、片思いといぅよぉなのにね、い
い値が付きますです、はい。
●ことにもぉ初恋となりますといぅと、本で言ぃますと初版本と同じことで
ございますからな、収集マニアがおられますけぇね。もぉ百万でも二百万で
も、もぉ取り合いになることはよくあるのでございますよ。
■えらいもんやねぇ、ほんで何かい、やっぱりこぉ、男のいわゆる恋の想い
出と、女の恋の想い出は値が違うのん？●あぁ〜た、うちの商売、ますます
ご理解が深くなってまいりましたです。いいとこ突かれました、そぉでござ
いますよ、はい。
●元来は、女の人の恋の想い出のほぉが高かったんでございますけどねぇ、
はい、この頃はもぉ、ここ十年ほどでございます、男の恋の想い出のほぉが
グッと高くなりましたです。
●それだけ男のほぉが純粋であるっちゅうか、弱気であるっちゅうか、まぁ
どぉいぅのか分かりませんけど、そぉいぅよぉなことはございますねぇ、ご
理解が深まってまいりましたです。
■いや、別に褒めてもろても嬉しぃことも何ともないけどね。売る人はそぉ
して分かったけど、やっぱり何かいな、人の恋の想い出なんか買う人あんの
ん？
●それが結構あるのでございますよ。今も申しましたよぉなことでございま
すけどな、もぉ何かの行き違いでね、一度も恋とか愛とかいぅよぉなことに
関わりなく、ふと気が付くと今さら恋でも愛でもない、といぅよぉな年になっ
とったちゅうオジサン、オバサン、結構おられますです、はい。
●そぉいぅ人は、せめて人のでもいいけぇ、恋の想い出を持っていたい。と
いぅのでお買い上げになりますです、はい。気のちょっと弱ぁ〜いね、その
くせ何か自尊心の高いよぉなね、あ〜たなんかそれじゃないかなぁ？
■人のことほっといてくれ。しかし、そぉなるといぅと何やなぁ、五十万の
耳掻きの想い出なんか、すごいねやろなぁ？
●はい、これがねぇ、売りに来られましたのがねぇ、この近所におられまし
たお婆さんでございましたけどな。小柄なね、まぁどっから言ぅても、間違
ごぉても別嬪さんといぅよぉなお人じゃございませんけど、顔に何とも言え
ん愛敬のあるお婆さんでございましてね、はい。
●このお婆さんのおっしゃいますのに「うちのね、お爺さんね、若いとっきゃ
えぇ男でございましてね、苦みばしったえぇ男ちゅう言葉ございますけど、
あのとぉりでございましてね、そいでね、若い頃、胸の病やりまして、わた
し、看護婦いたしておりましたです、はい」
●「あの頃は、今はそぉでもございませんけど、胸の病ちゅうものはねぇ、
死に病でございまして、はい。そいでもぉ、自暴自棄ちゅうんですか、ガ〜ッ
と怒り狂ぅたり、またそのあとではゴト〜ッと落ち込んだりね、とてものこ
とに助からんちゅうことが分かっとりましたんで、無理ばっかりゆぅ人でし
た、はい」
●「そりゃもぉ殴りかかるよぉなこともありましたが、わたしそんなときに、
まぁまぁ、まぁまぁまぁちゅうて、笑顔だけは絶やさんよぉにして看護いた
しましたです、はい。そぉするとね、えぇお薬がでけまして、お陰さんでお
爺さん助かりまして、病院退院することになりました」
●「そのときに、はじめて、おおきありがとぉ、お前さんの笑顔のお陰で助
かったんじゃちゅうてね、どぉしてもわしと一緒になってくれといわれまし
たけど、どぉ考えても今申しあげましたよぉに、お爺さん苦みばしったえぇ
男、わたしゃクッシャクシャの顔でございました」
●「愛敬だけはありましたけどね、お断りしましたです。釣り合わぬは何と
かいぅことがあるけぇ、えぇことないけぇ、なに？ お前の顔に惚れたんじゃ
ない、その笑顔に惚れたんじゃい、気持ちに惚れたんじゃい、どぉしても一
緒になってくれちゅうでね」
●「そいでまぁ、そこまで頼まれましたら、そぉですか、ちゅうて一緒にな
りました。はじめのうちは、お前さんのその笑顔じゃ、気持ちじゃちゅうて
ね、わたしのこと可愛がってくれましたけど、日が経ちますと人間の気持ち
て変わるもんでございますからなぁ」
●「また、えぇ男でございますけぇ、表へ出ましたら世間の娘がほっておき
ません、はい。いわいるところの、女がでけまして、家を空けるよぉなこと
になります。帰って来ますといぅと、やっぱり入りにくいもんですから、酒
呑んで帰ってまいります、はい」
●「わたしゃ決して、そんなことで咎(とが)めるよぉな言葉はひと言も吐か
んのでございますけど、吐かなんだらよけのこと向こぉが勝手に、自分が悪
いちゅうところがあるんでしょ〜、言われたら、何じゃっちゅうて言ぃ返し
もできますけど、わたしがそぉいぅこと言ぃませんけぇねぇ」
●「ニコニコ笑ろとりますけぇ。よけ、カ〜ッとなって、わたしを叩いたり、
まぁ蹴り落としたりしますです。でもわたし、こっから先も言ぃませんで、
また飛んで出ます。で、また次の女の人ができる、何べんも何べんも、だん
だん家(うち)空けること多くなりますです、はい」
●「そいでね、ある日のこと、わたし炬燵に入っとりました。じゃけぇ、わ
たしあんな人と一緒にならんと、何もわたしが一緒になってくれと言ぅて一
緒になったわけじゃないのにね、あの人が無理からそぉしたんじゃけど、やっ
ぱり『うん』と言わなきゃよかったなぁ、何でこんな目に遭わにゃいかんの
だろと思いましたねぇ」
●「炬燵の上へボタボタと涙こぼれましてね、そしたらね、ガスの元栓を閉
め忘れとったらしぃんです、台所のね、はい。あとから思たらまぁ、無意識
ちゅうんですかい、そんな気はなかったんですけど、ひょっとしたら死ぬ気
だったのかも分かりませんですね、はい」
●「そしたら、そのガスに火が着きまして大火事でございます。気が付きま
すとねぇ、病院のベッドでございました。フッと目ぇ開けますと、お爺さん
の顔がここにありましてですね『助かってくれたぁ〜』言ぅてね、大きな涙
二つボトッ・ボトッときましてですね」
●「あとから聞ぃた話ですけど、お爺さんまたね、例のごとく女の人とナニ
して帰って来たときに、これでございます。で、わたしが無意識ちゅうんで
すかい、意識なかったんだろと思いますけど、思わず知らずそのお爺さんの
名前呼んで『助けてくれぇ〜』てゆったらしぃんですねぇ」
●「そのときにそれ聞ぃたお爺さんがね、病院のときのことなどが頭グルグ
ル〜ッ、グルグルゥ〜ッと回ったんだそぉで『すまなんだぁ〜、わしが悪かっ
たぁ〜』ちゅうてね、そいで、皆が『一人助けよと思て二人殺すわけにいか
ん、入っちゃいかん』ちゅうのをね『何言ぅか』ちゅうて、振り切ってバ〜ッ
と飛び込んで、ほいでわたしを助け出して、病院へ入れてくれたんだそぉで
す」
●「はい、それから『わたしの命と引き換えてもいいけぇ、この女を助けて
くだせぇ』言ぅてね、神さん、仏さんに頼んだそぉです。で、わたしが気が
付いたときに大きな涙ボトッ・ボトッと落としたよぉなことだったそぉです、
はい」
●「それから、そんなことがあってからねぇ、お陰さんでもぉ、女遊びのほぉ
もなくなりまして、真面目に働きに行てくれます。そぉなりますとね、休み
のときに、お天気のえぇ日にゃ陽だまりで、寒ぶいときにゃ炬燵入れてね、
わたしがお爺さんの耳掃除をしますのが何よりの楽しみでねぇ」
●「あぁ、やっぱりこの人と一緒になって良かったな、思いながらね、こぉ
して耳掃除するのが何よりの楽しみでございました」と、いぅよぉなことで
ね、はい。
●それでね、このあのナニが五十年連れ添ぉたらしぃんでございますけど、
お爺さん、ポックリ先へ逝っちゃったんだそぉでございます。で、もぉお婆
さん、この耳掻きを見るたびにね、お爺さんのことを思い出して涙するんだ
そぉで。
●「お爺さんには悪いけど、わたしにはわたしの、まだこれから人生がある
けぇ」言ぅて「許してくれぇ」言ぅて、そいで、思い切ってこれを買ぉてく
ださい言ぅて来られたですよ、はい。
●それでわたしねぇ「五十万でいいですか？」っちゅうたら「はい、けっこぉ
です」ちゅうて、五十万渡しますとね、さすがそのときに大きな涙を二つボ
ト・ボトとね「これで想い出とお別れですよ」ちゅうたときに、ボト・ボト
とね。
●あんな小さなお婆さんの、どこにこんな水気が残っとったのかと思うぐら
い、ボトボトと大きな涙二つナニしてね、でも、五十万お渡ししますと「あ
りがとぉございました」ちゅうて、またにこやかな顔してねぇ、まぁ陽気に
陽気にお帰りになりましたです、はい。
●これがこの耳掻きの想い出でございます■はぁ〜ッ、えらいもんやねぇ、
五十万だけの値打ちあるわなぁ。買いたいけどなぁ、値は値やなぁ。またほ
たら、掘り出しもんがあったらまた寄せてもらうで、そのときに言ぅてや。
●……と、いぅよぉなことでね、想い出屋といぅよぉな商売やっとりました
けどね、いつまでもわたしもそんなこと。もぉこの年ですけぇ、ボチボチ隠
居しよと思とりますけど、そぉいぅ「想い出屋」といぅよぉな商売の「想い
出」をねぇ、
【さげ】
●値高く買ぉてくれる想い出屋、どなたかご存じじゃありませんか？
【プロパティ】
どんならん＝仕方がない。どうにもならない。しょうがない。どうしよう
もない。どうにもならぬ。ドウモナラヌ→ドモナラン→ドムナラン→
ドンナラン。
ヨケ＝よぉけ：よけい・余り・余分。転じて、たくさん。
しないな＝禁止を表わす「しな」＋強調の接尾語「いな」。
〜いな＝強調するための接尾語。ホンマかいな・そうかいな・言ぃないな、
などなど。
ケッタイ＝妙な・変な・へんてこな・おかしな・奇態な・嫌な・不思議な
など、実にいろいろな意味を含んだケッタイな言葉。エゲツナイと並
んで上方言葉の両横綱。怪体とも奇態とも希代とも卦体とも当てる。
原作：桂枝雀師
音源：桂枝雀 1995/02/11 枝雀寄席(ABC)
【作成メモ】
●参 照 演 者：main＝桂枝雀 sub＝＊
●main高座記録日：1995/02/11 ●音 源 名：枝雀寄席(ABC)
●ファイル公開日：2012/05/06 ●原 作：桂枝雀師
●更 新 日：2015/10/18 ●リクエスト数：
●注 意 事 項：内容を削除、追加、改訂している部分があります。
記録日のmain演者によるさげを採用しました。
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