【主な登場人物】
作ノ市 女房のおとわ 間男の馬ノ助 仏の徳兵衛
【事の成り行き】
信じきって心をゆだねている人に裏切られる、これほど辛いことはないで
しょう。ショックのあまり、愛しさの裏返しで憎しみが膨張して、こらえき
れなくなって爆発。新聞ネタになる愛憎悲劇です。
けどですね、人の思いというものは一方向に進むばかりでブレない保障は
どこにもなく、どちらかと言えば次々襲ってくる刺激に左右され、フラフラ
さまようのが常だと思うのです。
それじゃ皆、裏切り裏切られ悲劇の差し違えで混乱しているかと見れば、
中に入り込んで詳しく観察してるわけではないので実際は分かりません、し
かし世間、表向き何事もないように平穏な生活を送ってらっしゃいます。
裏切りを感じさせない巧妙さがそうさせるのか、裏切られるはずがないと
いう自信過剰がそうさせるのか、裏切りを感じることができない鈍感がそう
させるのか、裏切りを知ったうえで許容し合っているのか？ 未熟なわたし
には計り知れない世界です(2009/07/19)。
＊ ＊ ＊ ＊ ＊
え〜、代わりあいまして、一席ばかばかしぃところをうかがいますが。
世の中にはこの、どんなもんにでも色気といぅのがございまして、まぁ人
間取り上げましても男と女、女のほぉが色気があって男がちょっと色気がな
いなんてなことがございますけれど。色気があるもんと色気がないもんと、
こぉ会いまして玉子産んだり、いろんなこといたしますけれど。
まぁ、あの手ぇなんかでもこぉ持ち上げまして、で、この手の甲と手の平、
これにもちゃんと色気があったりいたします。どぉいぅんですか、こぉ人を
呼ぶ場合でも、女の方がこぉ優しくちょっとこぉ肩かなんかに手ぇかけます。
と、こら色気のあるもんです。
肩に手ぇかけるとき、手の平広らげてこぉしてかける人ございません。何
や物欲しげでございますが。なにんでも色気といぅものはあるそぉですが、
いろいろお話うかがってみますと、なんですか、病気にも色気がある。色気
のある病気とない病気といぅのがある。
どぉいぅ病気が色気があるかと言ぃますと、昔からこの、目をお患いになっ
てる方、目の病といぅのはこら色気がある。目病み女に風邪ひき男、てなこ
と言ぃますなぁ。風邪ひき男がなんで色気があんのか分かりまへんが。
まぁ、わたしみたいな男ですと、ちょっと風邪ひぃてやつれて、髭の跡で
も青ぉ、そぉいぅのが残ってますと「はぁ〜、色気あるなぁ」ちゅなもんで
すけども、仁鶴では具合が悪い……。まぁ、仁鶴に言ぅたら叱られますが。
そぉいぅもんで、まぁあの、風邪ひぃた男の人なんてのはちょっと色気の
あるもんで、またこぉ目ぇなんかお患いになってます方、こらまぁ男でも女
でも色気があるもんですなぁ。
男の人でもちょっとこぉ目ぇでも患ろぉて、紅絹(もみ)の布(きれ)かなん
かでこぉ押さえてますと「いよッ」てなこと言われますわねぇ。
■おいおい、かなんなぁお前、どぉしてん？●いや、ちょっとな目ぇ患ろぉ
て■目ぇ患ろぉたて？ この頃これ(小指)が過ぎてんのと違うか？●いや、
そんなこと言ぃないな、ちょっと患ろぉた■何言ぅてんねんお前、持てるさ
かいなぁ、どや飯でも食いに行こか？●そんなこと言ぃないな、うるさいやっ
ちゃなぁホンマにもぉ、食いに行こ食いに行こ、天ぷら奢ったるわ。
「そぉか、行こ行こ。バンザ〜イ」ちゅなもんで、なんや人の目の病、喜
んでる人ありますけど。まぁ面白いもんで、色気のない病気ちゅないろいろ
探してみました。こら癲癇(てんかん)やそぉですなぁ。お差支えがあったら
謝りますが、癲癇ちゅな泡吹いて倒れるやつですなぁ。
あれは色気がない、ブワァ〜ッと泡吹いて倒れて「治すのんどぉせないか
ん？」ちゅうて、なんや草履持って来て頭に乗せるそぉですけど、あんまり
草履頭に乗せてるちゅな姿見てると、百年の恋も冷めるよぉですが。
あの目をお患いになってる方、お差支えがあったらお詫び申しあげますけ
ど、はじめのうち、ちょっと目ぇ患ろぉたちゅな色気のあるもんですが、ご
く古ぅなってまいりますとちょっと色気がなくなってまいります。
京都のお噺でございまして、時刻がだいたい夕方でございます。一人の男
の人が表通り歩いてますと、一軒の家(うち)、表戸が開(あ)いております。
で、奥のほぉに火鉢の横にこの、一人、目の悪い方が、盲人(めくら)さんで
すな、大ぉきなアクビして座ってなさる。
■おい、何やお前、喉仏のご開帳か虫干しか？ 表戸が開いたぁるやないか
いお前、用心が悪いで●あぁ、これわこれわ、あんたでっかいな。いやいや、
どぉぞお入り……
●そぉでっか、表開いとりましたか、わたしゃねぇ、目が不自由(ふじゅ〜)
でっしゃろ、嬶(かか)が出がけにあんた、閉めて行きゃえぇのにもぉ……、
それが分かりまへんねや、へぇ。もぉ、わたしの目ぇは閉まったままでんね
んけど、表の戸ぉが開いてるか閉まってるか分かりまへんねん。えらいすん
まへん、まぁまぁ、どぉぞ……
■おとわはん留守か？●今あの、風呂行きましたんですけど、何ぞ用事やっ
たら呼びに行ってきまひょか？■いやいや、お前にべつに呼びに行ってもら
わんでもえぇねん。留守ならちょ〜どよかった、いやな、いっぺんお前の耳
に入れておきたいなぁ、と思うことがあんねけどな、まぁちょ〜ど留守なら
えぇわ、今行ったとこか？
●へぇ、今ちょっと前ですかいなぁ、行きましたんでね、あいつはちょっと
長風呂でっさかいな、もぉしばらくせんと帰って来んやろと思いますねんけ
ど■あそぉか、普通のことならな、放っといてもえぇと思てんねんけども、
どぉいぅもんかいなぁ、わしは耳に入ったら放っとけん性質(たち)でなぁ。
■いやいや、ひょっとしてまぁ、お前の体にもしものことがあったら、と考
えると、何や知らんけど心配でなぁ。え？ いや、お前がな、気立てのなか
なかえぇ男やさかいな、でまぁ、わしもいっぺん耳に入れとこかいなぁ……
●えらい、前置きが長ごおすけど、何でんねん？ わたしの耳に入れたいちゅ
うことは■んッ、まぁこれ聞ぃたらなぁ、誰でも腹が立つ。どんな無神経な
男でも腹が立つこっちゃ。
■言ぅてえぇもんか悪いもんか、まぁどぉしょ〜かと、わしもなぁ、毎日、
何じゃこぉ気にかけてんねけども、言ぅてえぇもんかいなぁ、悪いもんかい
なぁ……、あぁ〜、やっぱりやめとこか。
●あんた、最前から何言ぅてはりまんねんな「耳に入れときたい、入れとき
たい。お前がなかなか気立てのえぇ男やさかい」ちゅうてえらい褒めてくれ
はって、ほんで「やめとこか」て、いったい何どすねんな？
●そこまで話あんた、しだしはりましたのに、今さらやめられたらこっちが
気にかかります■さぁさぁ、そら分かるそら分かる、せやけどなぁ、カ〜ッ
となってな、お前がえらいことでもしでかしたら、といぅよぉな気にもなる
し……、あぁ〜、辛いなぁ。
●言(ゆ)わんと辛ろがってはってあんた、話を言ぅてみな分からしまへんが
な、わたしがカ〜ッとなるかどぉか■そぉか、そんならまぁ言ぅけれど、怒っ
たらあかんで。いやいや、普通の神経のもんなら、こら怒る。いや、怒んね
ん。こら怒るねん。怒るのは分かってるさかい、怒りなや。
●怒らしまへん■怒ったらあかんで、カ〜ッと腹立てたら、腹立てたもんの
負けやで●分かってます■怒ったらあかんで●へぇ、そない「怒りな、怒り
な」言わはんねやったら、もぉはじめから笑ろてますわ、ヘヘヘヘッ■気色
の悪いやっちゃなぁ、ホンマにもぉ。
■ほな言ぅけどな……、おとわはん、まだ急には帰って来んな？●へぇ、ま
だ帰って来ぃしまへん■そぉか、実はな、お前とこのそのおとわはんがなぁ、
男を作ってるちゅう話聞ぃたんや。いや、間男しとぉる。
■お前がなぁ、そんな体やなかったら、わしもなぁ、こんな話べつにヤイヤ
イヤイヤイな、言ぅて行くことはないねんけど、やっぱりそぉして目が不自
由やろ、不自由やさかいにもしものことがあったら、いや、ひょっとしてお
前の寝込みでも襲わんか、毒でも盛りゃせんかとそれが気になってな、それ
でまぁいっぺんお前の耳に入れときたいなぁと、こない思てん。
●何でんねんなあんた、よぉそんなアホなこと言ぃに来はりましたなぁ。そ
んなことどすかいな「怒りなや」とか「これは耳に入れときたい」とか「や
めとこ」やとか、ゴジャゴジャゴジャゴジャ言ぅて、うちの嬶が間男した？
ハッハッハッハッ……
●よぉそんなアホなあんた、そんな冗談言ぃに来たらあきまへんで。ほかの
ことならともかく、うちの嬶がそんな間男て、そんな馬鹿なことおすかいな。
いやね、そら分かってます、二人ね、仲がえぇさかい皆がそぉしてヤイヤイ
言ぅて揉まそもまそと、そら分かってます。
●わたしの耳にもよぉ入りまんねん、えぇ、ところがね、うちのおとわはね、
こんなわたしのとこへよぉ来てくれた。ねぇ、わたしゃ喜んどりまんねん。
貞女の中の貞女、貞女の鑑(かがみ)だ。あんじょ〜してくれますがなあんた、
こんな体のわたしに至れり尽くせりで、あんなえぇ嫁おへん。それがあんた、
間男やて……
●ちょっと徳さん、もぉそんなアホな冗談を言ぃに来んといとくれやす■そぉ
か、まぁ、お前がそれほどな、おとわはんのこと思てんねやったら、そらまぁ
えぇてなもんやけどな。しかしまぁ、町内で知らんのは亭主ばかりなり、と
昔からよぉ言ぅがな、なッ、間男するぐらいの嫁さんや、お前にはあんじょ〜
してくれるやろ、気取(けど)られんよぉに。
■まぁ、ほかのもんなら放っとくねやけどもな、お前の身にもしものことが
あったらと思うなりゃこそ、こぉして言ぃに来たわけや。まぁまぁ、お前が
な、してないと思てんねやったらそれでまぁ世の中丸ぅ納まってんねん。
■なぁ、お前らの夫婦仲も円満にいっとる、なッ、ほなもぉ今のん聞かんこ
とにし、聞かんことにし●徳さん、何でんねんその言ぃよぉ「聞かんことに
し、聞かんことにし」よぉそんなあんた、そらべつにね、おとわが何もわた
しに隠してるて……
●おとわはねぇ、心(しん)の底からわたしにあんじょ〜してくれ……、あッ、
あぁ〜さよか、ほなね、徳さんそこまで言わはんねやったら「間男してる」
それやったら相手がおまっしゃろ？ うちの嫁はん一人でできまへんやろ？
え、その相手は誰でんねん、相手？
●「誰それと間男してる、お前とこの嫁はんは」と、こぉ言われたら「あぁ
なるほど、そら思い当たる節もある」ちゅなもんで、わしも納得いきますわ。
そんなあんた、急に入って来てやね「お前とこの嫁はん間男してるで、町内
で知らんのんは亭主ばかりなりや」何を言ぅてなはんねん。さぁ、相手言ぃ
なはれ相手。
■その相手もなぁ、言ぃにくい話やが……、お前と仲のえぇ、あの、馬ノ助
や●何です？■あの、馬公(うまこぉ)や●馬公(うまこ)がうちのおとわと、
ファ〜ッ、こらあかん、こらあかん。もぉこれで嘘やと分かった。
●馬公とわたしとあんた、兄弟の契り結んでまんねん。ね、あんた「血の繋
がった兄弟よりも、義理で結ばれた兄弟のほぉが堅い」こない昔から言ぃま
すやないか。わたしと馬公の仲ちゅな……
●あぁ分かりました、わたしと馬公とがね「兄さん弟」ちゅなこと言ぅて仲
良ぉやってるもんやさかい、ほかのもんが傍焼き(おかやき)半分に、二人喧
嘩さそとこない思て……、ほかのやつならいざ知らず、馬公がそんなあんた、
うちのおとわと乳繰り合ぉてる、そんなアホなことが、えぇ加減にしなはれ。
■そぉか、まぁまぁ、お前がそぉ思てんねやったらそれでえぇ。よっしゃよっ
しゃ。ほなな、わしこれで帰るさかいな、くれぐれも用心しぃや。いや、お
前がな、目が不自由やろ、二人して何ぞお前にやりよるかも分からん。
■もしな「ケッタイな具合やなぁ」と思たら、すぐうちおいでや、分かって
るか。何でも力なるさかいな。いやいや、わしの言ぅたことな、たとえ爪の
先でも心のどこぞに留めといて。な、心配なことあったらうちへ相談におい
でや、えぇか、帰るで……
●ちょっと、ちょっと徳さん……、徳さん、ちょっと待ちなはれな……、徳
さん……。何を言ぃに来るねやろあの人わ、言ぅだけ言ぅたら帰ってしもた。
ふんッ、暇やとみえるなぁ、人のうち来て人の嫁はん「間男してるで」やて、
ヘッヘッへッ、アホなこと言ぃに来るわ。
●なぁ、あの人もこの頃ちょっとモォロクしてきたんちゃうかいなぁ。うち
のおとわに限って間男て、そんな馬鹿なことあるかいな。あんなよぉしてく
れる嫁はんはないと、わしゃいつも手ぇ合わして拝んでるぐらいや。
●しかも、相手がわしと兄弟の盃取り交わした、あの馬公やて。そんな、馬
公がまたわしの嫁はんを盗るやて、そんなアホなことあるかい。あぁ〜あ、
しょ〜もないことを言ぃに来るわ、ホンマに……
●遅いなぁ、もぉ帰ってくる時分やが、何してんねやろ？ あいつ、いつも
風呂長いねん、なぁ、徳さんも要らんこと言ぃに来るさかい、風呂が長いと
気にかかる……、そんな馬鹿なことないわ、うちのおとわに限ってな。あの
仏の徳兵衛と言われた……
●仏の徳兵衛か、仏の徳兵衛と言われる人やなぁ、あの人は。ついぞ、あん
な冗談言ぃに来たことない人や。まさか根も葉もないことを言ぃに来る……、
そんな馬鹿なことないやろ、なぁ、おとわに限ってそんな、わしといぅもの
がありながらよその男と……
●遅いなぁ……、よぉ温もっとんのちゃうかなぁ、あいつ、早よ帰って来や
がったらえぇのになぁ。徳さんがなぁ……、いやいや、そんなアホなことな
い。腹が空いてんのに、早よ帰って……
●けど、いつもわしのことよぉ考えてくれる人やなぁ、あの徳さんちゅう人
は。それが急に、こんな冗談言ぅてうちの家、揉めさしに来るちゅな、こと
も、ない……、ないやろなぁ。そんな馬鹿なこと……、おとわに限ってわし
を放っといて……、そんなことはないやろし、馬ノ助がそんな……
●早よ帰って来てくれたらえぇのになぁあいつ。何しとんねんな……、そん
な馬鹿な……、なんでこんな遅いねやろなぁ、なんでこんな遅い……、徳さ
んがそんなアホなこと言ぅて来るはずがないし、うちのおとわがそんな……
●わしに分からんよぉに、わしがこぉして目が見えんさかい、それえぇこと
にして「町内で知らんのは亭主ばかり」徳さんがそんな……、まだ帰って来
よらへんがなあいつ。
●ちょっと、徳さんッ！ 徳さんッ！ こっから呼んでも、あの人もぉ帰っ
てしもてるやろしなぁ。なんでやろなぁ、おとわがそんな馬鹿なことするは
ず……
●やっぱりそぉか、やっぱりそぉか、おとわが間男してる。徳さんの言ぅと
おりや、徳さんの言ぅとおりや。わいに分からんよぉにやってたら、わいは
おとわはえぇやっちゃ思て……、そや……、ちきしょ〜、あいつ人を馬鹿に
しやがって。
●徳さんッ、馬鹿にしやがって、目が悪いもんやさかい人の目ぇ盗みやがっ
て、間男しやがって。腹が立つなぁ、何で目が悪なったんやろなぁ、何で目
が見えんねやろ、この目さえ開いてたら、この目さえ開いてたらすぐに探し
出して仕返しがでけんのに。
●いまの今まで信じ込んでたわしが悪かった、馬鹿にしやがって……、あ〜、
何とかこの目が開いて欲しぃ、この目が開いて欲しぃこの目が。仕返しがし
たい、この目が開いて欲しぃこの目が開いて……
●そぉや、京都に住んでるもんや、わし京都に住んでんねん、話に聞ぃたこ
とがある、清水の観音さんへお参りしょ〜。観音さんにお願いして、この目
開けてもらお。
●あら確か昔、悪七兵衛景清(あくひちびょ〜えかげきよ)いぅ人が自分の右
の目ぇを生きたまま奉納したと聞ぃてる。片っ方でもえぇわ、あの奉納しはっ
た目ぇいっ時貸してもらお、やっぱり昔もんやさかいな、玉も質(たち)がえぇ
やろ、せや、お願いしてあの目ぇ貸してもろてな、仕返しが済んだらまた目
が見えんよぉになってもえぇんや。せや、今日から観音さんへお願いしょ、
お参りに行こ……
▲ただいま、まぁ、えらい遅なってすんまへん。いぃえぇなあんた、帰りが
けに、角曲がったとこであの話好きの妙元さんに会ぉて、いぃやもぉ何じゃ
かんじゃ話して、もぉあの人話が長いやろ、気が気やなかったん。
▲あんたにまだご飯食べさしてないし、早いこと帰らなあかんさかい、無理
やり話の腰折って帰って来ました、えらい遅なってすいません。お腹空いた
やろ、今すぐにお湯沸かしてお香香(こぉこ)出すさかい、お茶漬けすぐにこ
さえるさかい。
▲どぉしたん……？ どぉしたん？●飯みたいなもん、飯みたいなもん、飯
みたいなもん要らんわいッ！▲まぁ、なんやのん、涙こぼして？●涙と違う
わい、目ぇから汗出しとんのんじゃ！▲どこぞの世界に目ぇから汗出す人が
おすかいな、もぉそんな怒らんと、分かってます、今すぐ、すぐに用意しまっ
さかい、機嫌直して。
●要らん、もぉえぇ、もぉ要らん。えらい風呂長かったなぁ？ えぇわ、妙
元さんとでも誰とでも話せぇ、もぉえぇ、おいッ羽織出せ▲こんな遅がけか
らどこ行くつもり？●何でもえぇから、何でもえぇねや、俺ちょっと行くと
こがあんねん。せやから、羽織出せッ！
▲そら、出さんことおへんけど……、もぉあんた、日が暮れてきて危のおす
え●もぉえぇねん、羽織出せッ！ 出せッ！
「百日の願をかける」といぅ言葉がありまして、毎日この清水の観音さん
へお参りをいたします。おとわはんのほぉは、どこへ毎日出て行ってんねや
分からん。十二、三日も経ちまして、今日しもこの作ノ市っつぁんが清水の
観音さんにお参りに出かけました。
その後ろ姿を見送っておりましたこのおとわはん、
▲はぁ〜、何やろなぁあの人？ 十日ほど前から様子がコロッと変わって？
何ぞおかしなことでも聞ぃたんと違うかいなぁ……◆おとわはん▲んまッ、
馬ちゃんやないの◆あの、ちょっと、ちょっと◆あんた、今うちのんが出て
行ったとこやないの、よぉ見つからん……、見えへんけども、よぉ気取られ
なんだなぁ。ちょっとこっち入って、こっち入って……
▲あのな、あんた来たらいっぺん相談しょ〜思ててんけどな、もぉ気になっ
て気になって。十日ほど前やないかいな、覚えてるやろ？ お風呂行かんな
らんさかい言ぅてんのに、ちょっとの間ぁだけちゅうて、あんたといっしょ
に遊びに行ったとき、ちょっと帰りが遅そなったん。
▲で、帰ったら、うちのんがえらい涙こぼして怒ってんねやわ「なんでや？」
て聞ぃてもわけ言わんねん「羽織出せッ」言ぅてどっか行って、それから毎
日どこぞへ出かけて行くねん。
▲もぉ、気になって気になってしょ〜がないねん。もしあんた、あんたとわ
たしのことがうちのんの耳にでも入ったら、それこそえらい目に遭うやない
か。なぁ、ちょ〜ど来てくれたん幸い、すまんけどな、これから今行ったと
こやさかい、わたしと二人であと付けて行って、何しに行ってるのか調べに
行こ。
◆わし、そんなんあかんねや。そんなん、もぉ恐ぉ〜て恐ぉ〜て、もぉ帰ら
してもらう▲そんな気の弱いこと言わんと、なッ、付いて来てやッ。
おとわと、この馬ノ助が「どこへ作ノ市が行くんやろぉなぁ？」と付いて
まいりますと、清水の観音さん。一生懸命「目を開けてくれ、目を開けて仕
返しをさしてくれ」拝んでおります。さぁ、ビックリしたんはこの二人。
▲あぁ、やっぱりせや。やっぱりわたしら二人のことが耳に入ったんや。え
らいこっちゃ、どぉしょ〜？◆どぉしょ〜？ わしなぁ、作さんにはえらい
世話になってるさかいなぁ、あんたとこないなってるちゅなこと耳に入った
ら、それこそどんな仕返し受けるか……
▲さぁさぁ、それやないかいなあんた。どぉしたもんやろなぁもぉ……、せ
や、えぇこと思いついた、これから二人でな、清水の観音さんへお参りしょ
◆え？ 目ぇ開けてくれてか？
▲アホなやなぁ、この人わ、なに言ぅてなはんねんな。あの人が「目ぇ開け
てくれ」言ぅてんねん、わたしらがそれまた追いかけてどないしまんねん。
違いまんがな「あの人の目がどぉぞ開かんよぉにしとくなはれ」いぅて願か
けたらよろしぃがな。
◆いや、そんなこと聞ぃてくれるか、観音さんが？▲なに言ぅてなはんねん、
あっちは一人やがな、こっちは二人でお願いすんねやで、こっちのほぉが人
数多い分聞ぃてくれはるて◆まぁまぁ、向こぉが神頼みやったらこっちも神
頼みや、ほなまぁお参りしょ〜か……
それからおとわと馬ノ助も、作ノ市の後ろで一生懸命拝んでおります。百
日のあいだこの願かけを続けまして、えらいもんで今日がいよいよ百日目。
●観音さん、いよいよ今日が最後、百日目でございます。どぉぞこの目を、
どぉぞこの目を開けとくなはれ。目を開けて、目を開けて仕返しをさしとく
なはれ。たとえ一日、いえ、ほんのいっ時でもけっこぉでございます、どぉ
ぞ、どぉぞ……
●おぉ、おぉ、おぉ〜ッ！ 開いた、開いた。み、見える、見える……、あ
りがとぉございます、ありがとぉございます。これで二人に仕返ししてやる
ことができます。おおきに、ありがとぉございます。
クルッと後ろを振り返りますと、おとわと馬ノ助も二人並んで、人目はば
からず寄り添うよぉに拝んでおります。それがパッと作ノ市の目に入った。
【さげ】
●よその夫婦は、仲がえぇなぁ。
【プロパティ】
「滑稽清水(こっけいきよみず)」＝別演題「作の市」
紅絹(もみ)＝紅色に染めた薄手の絹地。女物和服の裏地用。
かなん＝困惑する。適わない→適わん→かなん。
癲癇(てんかん)＝痙攣・意識障害などの発作を繰り返す脳の疾患。突然意
識を失って倒れ、硬直・手足の痙攣を起こすなど、症状は多様。遺伝
的素質によるほか、外傷・脳腫瘍など脳の損傷によっても起こる。
間男＝夫のある女がひそかに夫以外の男性と通ずること。また、その相手
の男。密男(みそかおとこ)。
あんじょ〜＝うまい具合に。味よく→アジヨォ→アンジョ〜。
傍焼き(おかやき)＝ほかの男女が親しくしているのをはたからやきもちを
やくこと。
ケッタイ＝妙な・変な・へんてこな・おかしな・奇態な・嫌な・不思議な
など、実にいろいろな意味を含んだケッタイな言葉。エゲツナイと並
んで上方言葉の両横綱。怪体とも奇態とも希代とも卦体とも当てる。
ついぞ＝未だかつて・ほとんど・めったに。
ちきしょ〜＝畜生め：罵倒する言葉。
清水の観音さん＝清水寺：京都市東山区清水にある北法相宗の本山。山号
は音羽山。798年、坂上田村麻呂が延鎮を開山として建立、鎮護国家の
道場となる。平安時代、延暦寺と興福寺との抗争で、しばしば焼かれ
た。現在の堂宇は、徳川家光の再建。本堂の前面、懸崖上に張り出し
て設けられた板敷の部分は「清水の舞台」として知られる。西国三十
三所の第一六番札所。
清水寺・本尊の十一面千手千眼観世音菩薩＝千眼というところが眼病に効
くという因縁か？ 同じく十一面千手千眼観音を本尊とする京都長岡
の楊谷寺（柳谷観音）は目のお寺として有名。落語「景清」参照。
悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)＝平景清(？〜1196)：平安末期
の武将。忠清の子。俗称、悪七兵衛。平維盛(これもり)らに従って源
義仲・行家らと戦い、のち一門と西走、屋島の戦いにおける錏(しころ)
引きで勇名をはせた。平氏滅亡後、源頼朝に降り、断食して死んだと
いう。謡曲・歌舞伎に脚色される。
香香(こうこ)＝元来漬物のことであるが、特に大根漬け(タクワン)のこと
を指す場合が多い。
遅がけ＝おそい時刻。
(初代)森乃福郎(1935〜1998)＝本名、仲川吉治。1956年、３代目笑福亭福
松に入門、笑福亭福郎を名乗る。1961年、藤山寛美の命名で森乃福郎
に改名。
音源：(初代)森乃福郎 1972/12/** 島之内ライブ(KING)
特別謝恩：Ｙさん、資料聴取させていただきありがとうございました。
Ｙさんのコメント＝この噺も放送では取り上げにくいのか、聞く機会が少
ない。
【作成メモ】
●参 照 演 者：main＝(初代)森乃福郎 sub＝＊
●main高座記録日：1972/12/** ●音 源 名：島之内ライブ(KING)
●ファイル公開日：2009/07/19 ●江戸落語相当：信心
●更 新 日：2015/03/22 ●リクエスト数：
●注 意 事 項：内容を削除、追加、改訂している部分があります。
記録日のmain演者によるさげを採用しました。
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